将来、受験をひかえる子を持つ親として考える。

私の場合は、まだまだ先だ!という感じだが、
妻はすでに、色々考えているようで、子供の勉強や受験の話題になる。

一昨日もそんな話しになり、妻には「どこの学校がいい」とか、
「どこに行かせたい・行って欲しい」ではなく、
「何になりたいか」「何がしたいか・できるか・むいていそうか」をよく考え、
目標になりうる候補・選択肢を、子供に出来る限り見せてあげる。
その上で、その目標を達成する為の手段として、
知識や理論を得るために、それを学ぶ本や学校が必要なのだ
そう考えることが肝要ではないかと話していた。

目標を達成する手段も、一つの道だけではなく、複数の道があり、
道に迷ったり、失敗したりしても、他の方法や違う道があること。
目標は自身でいつでも変えられることを、親が教えてあげて、納得させれば、
そんなに神経質にならなくても良いのではないか。

私は子供のときから、会社の事務所の2階に住んでいたせいか、
野球の選手になりたいとは言っていたが、心の中で、この会社に働くことになると、
どこかで思っていたので、自ら選択肢を放棄していたのかもしれない。

わが子の受験に直面した時、親として冷静にいられるかは分からないが・・・。

先回も引用した。司馬遼太郎さんの著書の中の『受験の世』(1987年2月2日)に書かれていた。
〈 当節、入学難易度によって高校や大学を社会的に(!)秩序づけ、
 心理的には両親や当人のアイデンティティー(この場合は身分証明)の代用としている。 
  江戸期の身分制度は遠い昔になったが、それにかわる秩序として、
 いまは学歴や出身校が持ちこまれている。
  受験用の勉強は、*前記の定義でいう学問ではない。受験用の勉強とは、
 さまざまなシステムの内容を記憶し、また多種類のパズルのようなものを、
 いつでも解けるパターンとしておぼえこんでしまうことである。
  このためには、偏執的な努力を必要とする。独創は不必要だし、ときに邪魔にさえなる。
  それに適合しなかった敗者が、こんにちの仮象の”身分制”の各段階に区分されて、
 就職から縁談にまでひびく。滑稽というほかない。
 (中 略)
  まことに世の中が挙げて受験というゲームをしている。学問とも創造とも、
 あるいは教養ともかかわりなく、ひとびとは世の安寧秩序のためにこの遊びに熱中している。
  問題は、その仮象のゲームに敗れるか、参加できない人たちが、
 どのように価値のある人生を送るべきかということである。
  このもっとも重要なことについては、両親も学校も、さほどに知恵のある思案をしていそうにない。
  
  * 記憶するだけでは、学問にはならない。知識郡を手がたい方法で分析し、
   また独自の仮説をうちたて、あたらしい理論を構築しなければならない。 〉

20年前の記述が、そのままあてはまる現在はいかがなものか。

強い意志をもって行動し、子の手本になれるよう精進せねば!!
尊敬される父親になりたいので、
ダイカスト技術にたいしての「あたらしい理論を構築」を、目標に加えよう。